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橋本努学部講義 B6レポート 学問論no.2.

 

 

  法学部1年 大箸 信之

  

  「あなたにとって学問とはなにか」という問いに対する7つの答えは非常に興味深い。ただ少し疑問であるのはこの7つだけの中の組み合わせですべての人間の学問に対する姿勢が分類できるのかという事である。しかしこの7つの中の組み合わせで自分の学問に対する姿勢が表せると仮定して、自分の学問に対する姿勢を分析するのは面白い。そこから行ったいなんのために学問をするのかという問いを自分に対してすると案外つまらない理由の為に学問をしている自分が見えて来る。一方この遊びとしての学問というところで社会学者カイヨワの遊びの6つの特徴を満たしているというだけで遊びと定義してしまうことに対しては抵抗がある。僕の考えでは遊びというのは自分にとって直接的な利益を生まないものだと定義する。大学教授が学問をして給料をもらっている以上それは遊びではないのではないか。カイヨワの6つの特徴を満たすだけでは遊びとならない例としてプロ野球選手を挙げてみたいと思う。、まず1のやりたくなければいつでも辞められるというのが野球選手も契約が切れれば辞めることが出来る。大学の教授でも学問をしたくなければいつでも辞めて他のことが出来るというが長期間辞めていれば免職となる。つまり契約期間内であればいつでも辞められるという訳ではないのが2つの職業に共通する。次に2であるが野球選手は主にスタジアムという一般とは隔離された空間にいる。3の創意工夫の余地の残されているという点ではイチローや野茂の例がある。4の実益を生まないという点でも野球選手と大学の教授は共通している。野球選手がホームランを打っても直接的には利益はないが、学界で優れた成果を上げれば地位が向上して給料が上がるかもしれない。5のルールに従うであるが、スポーツにルールがなければそれはスポーツと呼べないだろう。日常生活と比べて「虚構の活動」である点でも2つの職業は似ている。以上の理由から学問とは遊びであると定義することには賛成できない。

 

  文学部1年 東 昌輝

  

  学知と実践知―12歳の少年と18歳の少年のテコについて―

  12歳の少年が知っている「テコ」に例えられる「実践知」は、ねずみが災害をあらかじめ感知して、安全な場所へ本能的に逃げる、と言ったもので、生物が代々生きてくのに必要なものである。18歳の少年の持つ「学知」は、組織社会を持つ人間だけのものであり、社会で生きていく上で必要なものである。また、「学知」を必要とする社会には、法律や三権分立、銀行制度等、形式的な側面を持っている為に、学問に入り浸るだけでは社会では役に立たないという結論が出る。人間関係のいざこざや予期せぬトラブルの対処、解決は、人生経験によって磨かれていく。そこにあるのは「実践知」であり、生きていく上で―世間を渡り続ける上で最も重要なものである。しかし、学問だけでは社会で役に立たないのと同様に、要領や経験だけでは、それこそ「世渡り上手」になってしまう。例えば、今食べているグレープフルーツやトウモロコシを栽培する際に使用された農薬はどの程度なのか、どれくらい安全なのか、日本はどういった輸入規制をしているのかといったものから、環境破壊によって起こったエルニーニョ現象が、遠く離れた日本や世界中にどういう影響を引き起こすのか、ロシアとブラジルの経済危機が世界中にどういった副作用をもたらすのか、といったこと―ここでは「学知」を指すことだが―に無関心であってはいけない。「実践知」のない「学知」が応用の効かない「知」、世間に直結しないのと同様に、「学知」のない「実践知」が思索することのない「知」で、中身も問題意識も持たない恐れがある。「学知」と「実践知」を人間は一つのものとして持っているべきである。

 

  文学部1年 板倉 亮

  

  どうして大学に入ったのか?という問いに対して、僕はどう答えてよいのかわからなくなってしまった。入る前は、何かやりたいことを見つけるために大学に行くのだ、といういかにももっともらしい(ように思える)発言をしていたのだが、今となっては明確な目標を決めてから入るべきではないか、と思うことがしばしばある。時にはもう一年浪人してもよかったんじゃないか、という馬鹿げた考えが浮かんだりする。高校在学中は絶対現役合格するんだという思いでいっぱいであったのに、今まで何かに化かされていたようだ。自分の価値観―よい大学に入ってよい会社に入り、よい家庭を作る等―が変容したのだろう。何がよくて、何が悪いのか、何をして生きていくべきか、何だかよく分からない。とにかく、今は大学に入ってしまったのだから、何をすべきか、何をやりたいかを考えていくしかないであろう。この講義で大学で何をするのか考えていくことができればいいと思っている。

 

  法学部1年 竹内 慎弥

  

  プリントの量が多くてはじめは驚きましたが思ったより中身は読みやすく、割とスムーズに読めたのでほっとしました。しかし、書き方はかなり極論的で、ある一定の立場から一方的に決め付けたように思える所があって、そういった所が僕にとっては不満といえば不満でした。

  また配られた資料の中には札幌市内煮ある古本屋の地図がのせてありましたが、生まれてからずっと札幌にいるくせに(札幌在住18年)、僕は地図に載っている古本屋が一つもわからなかったので少し淋しくなりました。でも最初の授業(ガイダンス)の時に話が出てきた「グルグル」というお店は聞いたことがあったので、なんとなくうれしかったです。

  僕はタイトルでこの講義をとったのですが、プリントには僕の知りたかったことが色々な本から抜き出してまとめられているので、見てて興味を持てたのがよかったです。大学生のそのままの意見が載っているので参考になることが多く、とりあえず今の段階ではこの講義を取ってよかったのではないかと思っています。まだ大学に入ってまもなく、資料にあった「4月病」のような状態ですが、資料を大いに参考にして先に待ち受けている「5月病」のようなトラブルをうまく避け、大学がつまらなくてしょうがないと思うことがないような生活ができたらいいというようなことを4年間の大学生活を控えた立場として考えました。

 

  文学部1年 石村 智美

  

  7ページの深い悩みを抱えること=存在の価値を高めることの部分を読んで今までの焦りから放たれ安心して悩むことにも積極的姿勢で行けそうな気がした。本当の自分は何だろう?何かこんなの自分じゃないと思って毎日過ごしてきたここ4年間、局所的にしか喜びを感じれず心の底から楽しいと思えることがなかったのは自分がして気持ちのいい行動・言葉を使ってなかったからだろうと思う。自然に生活している時って意外と何事にも真っ直ぐぶつかっていけて自分らしく充実した意味のある日々を送れていたと思う。異性のことにして友達のことにしても意識するとうまくいかなくなるようだ。自然の自分でいた方が物事がうまくいく。今私は、いかに自分らしくするかをテーマにして生活している。こういうことをテーマにすること自体が自然でないんだけど大学に入ってから周りに自然っぽさがいい人をうらやましく思いあこがれて手本にして、自分も極力肩の力を抜いて自分がしていて一番楽で楽しい自分の表現の仕方を探している。だから時にはテンポの早い人と思われたり、スローな人と思われたり自分でも自分に一貫性がないことが分かるのだがこういうことを模索している自分を認めてやりたい。つい最近まではこういうことはかっこ悪いからてきとうにでもにぎやかそうにやっていればいいやと思っていたけれど、今は自分の納得いくまで真の自分に対する心地よさを求めていきたいと思っている。そこから心地よい自分になることで余裕もできてもっと大きい人間(と簡単に言っているが目標がある。後で述べる)になっていけるんだと思う。自分の弱点を認めつつ自信を持てたら本当にいい状態だなあと思う。私は物事に意欲的な人間になりたいし、自分を上から客観的に考えられるようにしたい。友達との付き合いもソフトで暖かい愛をもって接していきたい。中学生時代までは好きな友人ばかりでいつも心が楽しくそれでいてほっとする場所がいっぱいあった。最近では余計な焦りがそれを邪魔している。私は真の価値を大切にしたい。話は飛ぶしもう何を書いているのか分からないが、私はTV等で文明の発達していない森等の奥に住む人達を見て彼らの言葉は私の口から出る言葉よりもシンプルでもとても意味のある、それに心から正直に出る言葉なので優しくもあり、たくましくもあり、ユーモアもあるように思われる。そのストレートさがいいと思う。私もシンプルだけど中身を充実させていきたい。心を豊にしたい。そのためには見栄などを捨てて潔く生きていけることをスタートとしようと思う。

  大学生活を有意義に!!と思うと世間一般にいいと思われていることしか浮かんでこない。自分の気持ちを重視したい。"トモは何をやりたいの?"と自分に問うが、やりたいこともよくわからない。そこで思考を巡らしてもこの件に関しては解決しないので色々やってみることにした。チャレンジ期にする。自分のことはよく見えない状態だが、自分をコントロールできるようになれればもっとどんどん物事にあたっていけるだろう。こんな自分だから他人といつもいると頭と気持ちが混乱するので11ページにあるように誰とも話さずに一人でのんびり考える日も私には必要だ。こういう授業があり様々な文章を読み、こうして自分でも自分の思いが書ける場所があってよかったと思う。今日の授業を受けて皆も考えていることはあるし深いことだと知って心強かった。週1のこの時間で自分のことを考える機会を保っていきたいと思います。

 

  法学部1年 伊藤 文哉

  

  大学は学校だから、大学生は勉強するのが普通に考えたら当り前のことである。だが、「学問するため」に大学に入学して来る大学生がそんなに多くないことも確かである。いろんな人がいろんな理由で入学する。中には「まだ社会に出たくないから」という人もいる。いわゆるモラトリアム人間である。だが僕は彼・彼女を批判しようとは思わない。社会に出てもあまり役に立ちそうにないからだ。大学での4年間を、自分のやりたいことを探すのに使えばきっといくらかましな人間になって社会人になれるだろう。理屈はそうでも、しかし現実はそう甘くない。大学という所は、自由である所に一つの魅力があると僕は思うが、自由すぎる、という問題が表裏一体で存在している。そしてそのことは、学生がいいかげんに時を過ごすことを許してしまう。結果、凡庸な人間として生きていくことになる。凡庸であることは別段悪いことだとは思わない(なぜならば世の中の人の大抵は凡庸だから)が、僕としては「アタリマエ」の「フツウ」な人生よりも、半回転ぐらいはひねりを加えて生きていたいのである。

 

 

  文学部1年 国吉 るり

  

  ディスカッションに参加してたくさんの人が想像以上に大学生活を真剣に考えていることが分かって驚いたし、意外だと思った。そしてあまり真剣に考えていない自分が恥ずかしくなった。フツウなら人目に付くように頑張ることはくさいとか恥ずかしいといった風潮があって、私は今まで自分の熱中していることとか夢は表に出さなかったのだが、これからはもっと積極的に自分の内面を出してもいいのではないかと思った。

  しかしプリントを呼んで気になったこともある。それはプリントの内容で「負けている」とか「学問するよりも優れた生き方はたくさんある」とか「愚民」という、人と比べて、自分が優位に立っているというように解釈できる言葉が使われていることだ。もちろん先生としてはそんなつもりはないとは思うが、文章のちょっとしたニュアンスだからこそ、その人の本音のようなものが伝わり易いと思うので、その辺りは少し気になる。文化や芸術は比較することはできてもそれに優劣を付けることはできないように、人の生き方も、惹かれる生き方はあるにせよ、それに優劣を付けたりすることはできないと思う。

  ところで、私はとても北海道にあこがれて北大に来たので、メインストリートを歩いているだけでも、気持ちよく、すがすがしくなることができる。極端に言うと、積もって固まって汚くなくなった雪でさえ、愛しく感じる。ちょっとしたことで嬉しくなる自分は得な性格だと思う。この授業では、結局、大学生活を充実したもににする為にみんな講義を受けているのだろう。それで、本を沢山読むとか、教授と親しくなる等、様々な方法を知ることはとても良いことだと思うが、一番大事なことは、やはり自分の心がけだと思う。もっと、感覚、感受性を豊かにして些細なことにでも幸せになることができるようになったら、一生とても楽しいと思う。大志を抱いてそれに突き進む充実感も、平凡でも幸福な人生を送ることも、どちらも、とても素敵なことだと思う。このプリントからは、自分で考えて勇気を出して実行しなければ、何も起こらないということが分かった。参考にして、自分の道を進もうと思う。

 

  法学部1年 長峰 繭子

  

  私は他大学に2年間通った後、再受験で北大に入学しました。北大は自分にとっての最高峰だったので満足していますが、これから4年感度のように過ごすのが自分にとって一番よいか考えが定まりません。将来出版社に勤めたいので、大学の新聞会に入ろうかとおもっているのですが短絡的でしょうか?

  今の多くの大学生にとって、大学生活とは、大学合格の後について来るおまけのようなものではないでしょうか。遠足そのものよりも遠足の準備(おやつを買いに行ったり)の方が楽しかったりするのと同じような理屈です。…違うか。

 

  教育1年 東田 真子

  

  まずは面白い!と思いました。90分がとても短く感じました。マイクがまわってきた時は、本当にどうしようかと思いました。(発現するのがとても苦手なので)自分で何を喋ったのかあまり覚えていません。でもこれも訓練だと思って、積極的に発現していきたいと思います。私は大学に入ったら遊ぶんだ、と思って受験を乗り越えてきましたが、この講義でも、他の講義の中でも読書を進めているので、これから時間を見つけて本を読んでいこうと思いました。寝る前30分くらいから本を読んで、眠くなったら寝るという生活をここ2−3日前から贈るようにしています。すごくぐっすり寝れます。

  私は専門学校で何か技術を身につけたかったので、大学にはって一般教育を受けていて物足りないと言うか、どうやっていったらよいか漠然とした不安に刈られることがあります。だから「学生時代に何をすべきか」ということを聞かれると、本当に困ってしまいます。多分平凡にサークルに入って単位を取って卒業するのではないかと思います。そういうのが嫌なのでこれから考えていこうと思います。

 

  文学部1年 高橋 知理絵

  

  私は入学する前からやりたいことはほぼ決まっていたが、1年目は教養なので何をしようか結構考えた。考えないとただ流されてしまいそうだから、考えた時点で平凡だとか言われると結構反感を覚えた。

  1浪までして入ったのに、入った途端勉強するなといわれると複雑な気分になった。今の私は4月病にかかってかなりはりきっているのになんだかどうしたらいいのかわからなくなる。プリントによると4月病にかかると5月病にもなるとあったが、なんとかならないだろうか?まあ5月病になってみるのもそんなに悪くはないかもしれないが…

  お酒について、私はお酒が好きだからこう書くのも変だが、高校までは"逃げのお酒"だったと思う。大学と違い1日中一緒にいるのに、クラスが変わる毎に飲み会をしないとクラスが打ち解けた雰囲気になれなかったのはとても悲しかった。だからこれからは悲しくない飲み会?をできるようになりたいと思う。

 

  法学部1年 坂井里華子

  

  私はこの授業を受けて焦りを感じた。

  皆はこんなにしっかりした考えを持っているのかと。果たして私があのようにいきなりマイクを手渡された時、ちゃんと自分の思ったことを口に出していう事ができるだろうか。そんな意味で私はこの授業で人前で自分の意見を言えるようになろうと思った。また私は将来なりたい職業などが漠然としか決まっておらず、大学の4年間でそれを見つけようと希望を持って大学に入学したので講義は無駄だ等と言われ落胆している。それでは大学に通う意味とは何なのだろうか?それが分からず本屋をさ迷っていた時、「大学で何を学ぶか」(浅羽通明、幻冬舎文庫)という本を見つけ買った。しかしこれが大学の批判ばかり、あれが駄目だ、これが駄目だ、というだけで何の解決にもならない。腹が立ったので、読むのを止め、それは未だに3分の1しか読まないまま放ってある。もしかしたら、その先に解決法が書いてあるのかもしれないが、そこまで読む気にもならない。

  と、いうわけで先生にも本を出す時は、批判ばかりではなくその解決法(できれば最初の方に)書いた方がよいと思います。このような題名の本を手に取るということは、大学での過ごし方が分からず悩んでいるという場合が多いのでは、と思うのです。何はともあれ、半年宜しくお願いします。

 

  法学部1年 松田 友輔

  

  p48の下の「問題を100個抱える人間になろう」というのに大いに賛成できる。私が今まで19年間生きてきて、問題にであった時に、その問題に真剣に取り組むかまた、するりと回避してしまうかで、後々(2、3年後くらい)、人生における少しの変化がある。問題を受け止めてそれをどうするか自分で悩んだり、他人と葛藤したりすると、確かにその時は無駄と思えるエネルギーを大量に消費し、精神的にも苦しくつらい日々が続くことになるが、相することで自分なりに答えをだし、(それが自分が納得できない場合が多数ではあるが)そのことが今振り替えると自分自身に非常にプラスの経験になっている。それとは反対に問題から逃げてしまった場合は、その時は楽ではあるがそれが後で自分にとって何にもならなかったことということが明らかに分かる。現在私は100まではいかないが大小合わせてかなりの数の問題を抱えている。時々どころか毎日それらの問題から目を背けたくなるが、今までの自分の人生の経験を活かし、それらの問題を抱えている自分自身をあるがままの姿で受け止めようと努力している。この自分自身の問題から逃げることを止めるということを学んだことは、私の人生における大切な財産の内の一つであると思う。北海道に来てからのこの2ヶ月で私には多くの問題が増えた。この調子でいくと私の大学生活は問題だらけになるだろう。そんな毎日を常に苦しんではいるが後の私の人生の大いなる糧になると思われるので毎日葛藤しながら一歩、一歩成長していきたい。

 

  法学部1年 門内 信弥

  

  学問を純粋に楽しいと思えなくても、「楽しくない所が楽しい」というようなマゾ的な楽しみ方を見つけることは非常に大事なことだと思う。ストレートに楽しさを感じられないものは学問以外にも山ほどあるので楽しくないものから楽しさを見つけ出す能力を身につけることができれば生活の中身が濃いものに変わってくるような気がするのです。だからといって積極的にマゾになるべきだというのではなく、「苦しいように見えることでも長い目で見れば自分にとって得」等といった前向きめな考え方を生活の中にちりばめていくことで嫌な思いをすることも減らすことができるのではないだろうか。とにかく少なくとも僕は学問を楽しめる側の人間ではないので、授業に参加しながら少しずつ自分なりの学問を楽しめる方法を模索していきたい。授業の内容に関係なく、授業に向かう姿勢を少しずつでも自分なりに納得できるものに、完成度のより高いものに近づけようとする努力を続けることは僕にとって非常に大事なことであるように感じた。その結果学問が楽しめることができるようになることができればそのことが大きな喜びになるのだし他の分野にも生きて来るだろうと思うので大きなプラスになるような気がする。

 

  教育1年 設楽 哲子

  

  エネルギッシュな学問生活を持続させる為に…私が"学びたい、勉強したい!"と思うことできるには、友達による所が大きい。最近、グループ学習室で勉強したことがあったのだが、私は取りたててやることがなかったので、友達が勉強しているのを見ていた。友達は、ただ宿題、いわゆる義務的なものをやっていただけなのに、私は彼女たちの姿を見て猛烈に勉強したいと思った。倫理、世界史、日本史、心理学等を。これらの知識が自分の中に取り込まれることは、漠然とだが、素敵なことだと思った。それで、これらを独学しようと思い立った。だが、私は、典型的な「規律訓練」にならされた人間であるらしい。達成すべき明確な目標(例えばテストでよい点を取る等)がないと、どうもやる気がでないし、やっても持続させることができない。資格試験なんかには多分燃えるタイプである。だから、いざやろうとしても色々考えを巡らせただけで終わってしまう。受験の時も受験勉強が終わったら、自分のやれなかった勉強、犠牲にしてきた勉強をやろうとかなり楽しみにしていたが、未だ完遂していない。"無心の熱中"にはとてもあこがれている。だが、なぜか恐怖をも感じてしまう。理由は分からないが無心=怖いという観念が私の中にあるらしい。多分無心に熱中するということを経験していないからだと思う。私はよく、夢をすぐ諦める。金銭的理由で諦めることが大半だが、それだけとは言い難い。私の中に大きな壁があるようだ。

  私が学問をする動機は卑俗的だ。私はよく高校時代の友達のことを話に挙げるが、彼らと同等のレベルになりたいのだと思う。少しでも、彼らの会話に入れるようになりたいから、学問をしようと考えるのである。それでもかまわないのだと教えてくれた先生に感謝したい。